最近、自由意志というものについて議論がされている記事を見かけた。そこで考えたことは 自由意志とは実は人間の無知による産物ではないかということだ。 そこで自由には2つのタイプがあると考えた。ひとつは 無知による虚構の自由 で、もうひとつは 叡智による真実の自由 だ。 虚構の自由はただ知らないというだけで、決定論的真実を肯定できないだけの無知から生まれた自由で、制約を無自覚に受け入れているだけの 被支配的な状態 である。 そして真実の自由は叡智によって自らの意志を決定し、決定論的真実を肯定しても、それを無条件に受け入れる必要のない 支配的な状態 である。 ふと思ったのは、人間は決定論を肯定も否定もできないのに、それを論じていて運命だの偶然だの言っていることが実に滑稽であるということ。 人間として生きるなら、ぜひとも前者になりたいものだ。
タイトルの通り、 惜しみなく使えるものこそが、惜しくなるものであり、必要不可欠なものになる。 こういうジレンマは数多いが、最も本質的ではないだろうか。 まるで空気のように、 本当に必要なものこそ気付かないものだし、失ったころには大変なことになっている。 そういうことに感謝できることが生きる喜びであり、贅沢であるといえる。 あらゆるものは長期的に見て消耗品である。 だから適切な時期にしっかりと使ってあげないと真価を発揮できずに終わってしまう。 それこそが最も無駄あり、避けるべきことである。 だからこそ、 自分が使える量をしっかりと把握したうえで、使い切れるだけのものを持つ。 それこそが大人として、人間としてのものとの向き合い方である。 真剣に生きるからこそ、課題に真摯に向き合い、その中で最適な解を見つけて乗り越える。そんな熾烈な世界を生き抜くには、 ミニマリズムは不可欠だと思う。 そして、そんなこだわりを満足させるほどのものに出会う必要がある。それを見極めるための目を常に研ぎ澄ませていきたいものだ。